温湯由来(浅瀬石川アートの道モニュメント碑)
温湯温泉共同浴場(大正時代:大正6年建築)

 温湯温泉は古くから津軽郡中に広く知られ、藩政時代には宗藩の弘前藩主たちも入浴に訪れている。幕藩期には、津軽郡中の名湯に数えられ各地から湯治客が集まったばかりか弘前藩主もたびたび訪れている。温湯には伝説があり、幕藩中期以降に書かれた「鶴泉記」によると、時代は定かではないが、傷ついた鶴が芦原に降りやがて快癒して飛び去ったのを里人が見て温泉を見つけ「鶴羽立」と名づけたとされている。また、「鶴泉」とも称したと伝えられている。
 天文年中の
「津軽郡中名字」には『熱後湯』とも記載がある。「鶴泉記」の伝承はさらに続き、天正19年(1591)に北畠氏旧臣の工藤次郎左衛門が湯宿を設けてから湯治客で繁盛し、寛永年中(1624〜40)に黒石に配流中の公家、花山院忠長が遊んで『温湯』と命名したとも言われるが、花山院が流されてくる以前に「温湯」、「板留」の名は文書に記されていた。。
 温湯温泉はこのように400年以上の歴史があり、津軽の湯治場として栄え、津軽系の温湯こけしもここが発祥の地です。

 イギリス人女性、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(平凡社刊)は明治11年(1878年)の6月〜9月までの3か月にわたる外国人の視点で描かれた当時の東北・北海道の農村等の人々の生活ぶりがわかる紀行文です。
 黒石に関するものは当時のねぷた、中野、温湯を中心に記述されており、また明治38年(1905年)頃にこの地を歩いた大和田建樹が記した旅日記「あけび籠」にも、温湯温泉のことが紹介されています。イザベラ・バードが明治に行脚し、日本奥地紀行に記述した当時の温湯の浴場を下記(抜粋)に記します。
  ここは、長方形の陥没の縁に沿って家が立っており、その底部に浴場がある。浴場は四つあるが、形式的に分かれているだけで、入口は二つだけで、直接に入湯者に向かって開いている。端の二つの浴場では、女や子どもが大きな浴槽に入っていた。中央の浴場では、男女が共に入浴していたが、両側に分かれていた。ぐるりには木の棚が出ており、腰を下ろすようになっていた。
  私は車夫の行くままに浴場に入ったが、一度中に入ると、出るときは反対側からで、そのときは後ろから人々に押された。しかし、入湯者は親切にも、私のような不本意な侵入を気にとめなかった。車夫は、そんなことをして失礼だとは少しもわきまえずに、私を連れて入ったのである。浴場においても、他の場所と同じく、固苦しい礼儀作法が行われていることに気づいた。お互いに手桶や手拭を渡す時は深く頭を下げていた。

                                                            (日本奥地紀行:平凡社ライブラリーより)
黒石温泉郷・温湯温泉