|
板留温泉のある黒石市の山形地区は中野の不動堂と紅葉山、温湯・板留・落合などを中心にして、古来から浅瀬石川に沿う温泉と景勝地として津軽中に知られていました。
明治38年(1905年)頃にこの地を歩いた大和田建樹が記した旅日記「あけび籠」の板留温泉の部分を下記に転載(抜粋)します。 |
林檎 赤く、マルメロ黄なる村また村、秋おもしろく送り迎えられつつ(中略)板留に着きぬ、入湯の客宿す家ニ十戸足らず、西向に並びて前は岸高く谷深く、淺P石川その下を流れて夕立の音すずやかに、岩に眞砂に碎けつつ行く。 川のかなたはまだ刈り果てぬ田廣く、山また山、屏風如く立ちて西北の方少し低くなりたる遠山の上より、丈高く打ちのぞくは岩木山なり小鳥は木に鳴き、菊は籬に香りて、おのづから幽邃塵外の一仙境、早くも天地の人間に非る心地ぞせらるる。安田君(板柳の人)の宿りは丹羽小次郎という人の家なり、居ながらに今過ぎ來りし蛾蟲の坂をながめ、耳には前行く水の音樂を聞きつつ爐を隔てて物語をなす、愉快は天然のみにもあらず
『 桃の咲く里もありやと比川の水上とほく君とたづねん』
やがて湯にと案内せられて手拭提けつつ共に行く、湯はこの村に三つ、何れも川の汀にありて、其の一はネツと呼ばる、いつまでも温まりてさめぬ効あればなり、其の二はヒエと呼ばる、長くあびてものぼせぬ効あればなり、其の三は四分六分と呼ばる、冷熱まじりで適度なる心ならん、まつ其中を得たる四分六分より試みんとて、前の崖より細道をおるれば、板葺の小屋ありて湯は底清く、よき程に香り満ちたり、傍らに着物脱ぎ捨てて入る、げにも名の如く熱からず寒からず、疲れし身には殊に心地よし、此の頃は湯治客少なしとて、我等ならでは一人ほか入りて居らず。廊下めきたる處を岩踏みながら行けば湯瀧あり一丈ばかりの上より大きなる竹筒などの太さにて走り落つるを全身に受けて或は肩を打たせ腰を打たせ叉は腹を膝をと自然の按摩に打たせ揉まする其愉快さ試みぬ人に語るとも分らじ、さても此瀧の水上はと問へば山より滴るを受けて湯舟にたたえ、湯舟の出口が引かれて此に落ちきたるといふ、さらば瀧は華厳にして湯舟こそ中禅寺湖ならめといへば、奥の日光とや名づくべきとて安田君はほほ笑む。
『あたたかき神のめぐみの湯あみして身がるくなれる我旅路かな』
(中略)
『湯あみして出でし乙女が顔ばせの薄色もみぢ雨にみるかな 』
さはいへど川のかなたの黄色なる梢、薄衣かけたるやうに煙り渡れる遠近の山、ぬれたる秋の景色も、更に而白くぞ見やられたる今朝は冷の湯に行く、四分六分よりは少し川上なるが客はまだ來らで紅葉ニひら心靜に浮び居れり、湯あみしながら壁板を見れば、此湯が村の名の起りなりとて、その古事を筆太に書きたり、志ある人のしわざならん。 むかし花山院の少将忠長卿この川におはして釣し給ひしが湯の湧く處を見出てて湯あみせんとし給へども川の邊なれば水とまじりて、温まれば冷やされ、などして詮方なし、依りて村人に川水の來ぬようにしてくれよと、宣ひしかば、やがて板をもてせき留めたるが、是ぞ板留の名の起原なると
是はuある文章なれども、さらなる樂書も叉多く、白板のためには気の毒ながら、あびつつ讀むにはいと面白し、 曰く 「もしもし諸君、湯から上りて田代山を見物し給へ山道を半里行くと石山にて相撲取岩あり」 曰く
「自然を樂むの墨客はそも誰ぞ、兎角英雄閑日月あらん」 曰く 「戀なくてさびしき秋や里がへり」 曰く
「湯に入りてさまして行くや酒の醉」(後略)
歸れば酒など湧かしつつ
『 明日ゆかん岩垣紅葉瀧の水おもへば雨もョもしきかな 』
(烏城志より抜粋)
|
黒石温泉郷・板留温泉
|