この絵は昭和6年10月に発行された「浅瀬石川郷土志(佐藤雨山・工藤親作 共編)」の中に綴りこまれているA2版程の大きさの絵で、上部に『明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』と表記がされています。
明治初年といえば慶応4年、この年の9月8日には明治と改元された年で、1月には鳥羽伏見の戦い、3月には明治天皇が五か条のご誓文発布、4月には江戸城無血開城、7月には江戸を東京と改めたりと世の中の社会通念等も大きく変遷をしていた時世。
この絵にはその7月のお盆時に踊りや唄を楽しむ町人、農民、家士等々、集まる多くの人々が描かれています。 ちなみに描かれている人々の人数をカウントしてみたら、赤子も含めて173名でした。
藩政時代の盆踊りには黒石はもちろん、近郷近在の村々からも踊りをするため、見学するためと、黒石の町中が多くの人々で溢れたのは当時の記録でもわかっています。
盆踊りとはいえ、生活の諸事において規制がされていた封建時代とも思えないような仮装をした人も随所にみられます。 明治維新の最中、この描いている様子が慶応4年7月のお盆とすれば、世の中が大騒動な時勢にもかかわらず、庶民の楽しみでもあった黒石の盆踊りはすこぶる賑やかに行われていたようですね。
幕末頃の盆踊りにおいて仮装姿も少なくはなく、それぞれ数人から数十人の組々で趣向をこらした服装、或いは法被姿、獣や道化風の仮装等々への変装もあり、このような姿で太鼓、三味線、ツツミを奏でて、唄い踊りながらの行列を作り、賑やかに町中を練り歩いたようですが、この絵からも個々の組と思われる方々の盆踊りに臨む意気込みというか風体が歴然とわかります。
盆踊りの場所は、黒石よされの歌詞にも出てくる当時は現在の5倍ほどの敷地だったという山形町愛宕山地蔵院の境内、黒石陣屋(藩政時代)の周辺である前町上ノ坂の上の十文字、西御門前(大工町)が主だったようで、仮装した踊り手達が町中を上(カミ)から下(シモ)へ、下から上へと踊りながら行進し、これらの場所等で夜更けまで踊り明かしたようです。
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