かの山までは一里にして近し中野の村をぬけて廣からぬ山道を行くに、草の紅葉は花よりも美しく瀧見し山は遠くまで名殘りをのこして顧みらる。爪先上がりとなるまゝに鹿の脊なしたる草山を、右に左にしつゝ行く、秋しづかにて木こり一人だに逢はず
目ざし山は漸う近くなりて森と共に寺見えたり、あな嬉しといへば是からが七曲りといふ、嶮路なりと、安田君かたる程に、平なる道盡きて下りとなる、見わたせば彼等は千尋の谷間を隔てゝ間近く仰がれたるにてありき、すぐるが如くおりはてし「く」の字幾つも續けたるつゞら折を、右へ左へ登る、いと急なり、一昨年ものせし播磨の書寫にや比べん、行きては休み、休みては行く、半ばにして谷底深く見おろせば、雑木雑草紅葉して色さまざま深山の晩秋、さながら自然の百花園をなしたり、其の間に白き札をなどを立てたらんやうに打ち見らるゝは尾花ならん
辛うじて登り果つれば石段ありて山門の仁王いかめしく本堂は正面にて左に廣やかなる建物あり無相窓に清書の紙など貼りてあるは学校なりといふ、本堂の庭より音なへば、和尚いでゝ懇に案内し客座敷めきたる離屋に連れゆきて、茶くだものなど勧めらる、寺は是空上人の開基にて今より二百年近くになりといふ、学校の起こりを問へば、もと全くの寺子屋にて和漢學習、習字、数學など教へしより事はじまり今も十人ばかりの來學者ありなど語れり
(烏城志より抜粋) |